日本JC(青年会議所)で硫黄島訪問事前講演

講演の様子

平成20年9月27日

秋本 昌治

人間 山本五十六

1、アメリカは昭和16年(1941年)7月23日南部仏印進駐(旧南ベトナム)以後日本の在外資産を凍結し(7月25日)石油全面禁輸し、対日戦争を決定した。そして対日宣戦布告に等しいハルノート(11月26日)を突きつけた。アメリカは中国における領土保全、門戸開放、産業上の機会均等を唱えて日本との対立が鮮明になった。
2、開戦通告の遅れ
東部標準時(ワシントン)午後1時に開戦通告を予約したが約1時間遅延した。
  1. 日米関係の緊迫する中で重大な失態である外務省役人の保身体質が問われる
  2. 米艦隊の主力の来襲を待って敵艦を撃滅する保身の戦術では勝機を見いだせない。
    フリート、イン、ビーイングを脱した先攻防衛に徹する。つまり奇襲と一点集中的な攻撃に出る。・・・真珠湾奇襲攻撃

    米国は Treacherous attack だまし撃ち
    The day of infamy 恥辱の日

3、米英と戦うべからず
陸軍も海軍もアメリカを知らなすぎた。又アメリカも日本を過小評価していた。
  1. 三国同盟(昭和15年9月27日)に反対した米内、山本、井上の海軍トリオは陸大を卒業しアメリカの駐在武官、佐藤賢了は歴史家保阪正康氏によれば

    「米国というのは興論の国だ。だがこの興論というのが曲者でブローカーのような連中がでっちあげた化け物だ。それに万事金次第だ。だから利己主義、個人主義のかたまりになっている。油断をすきもない」
    「アメリカ陸軍ときたら、外国と大戦争をしたことがない。第一次世界大戦だって末期のごたごたに参戦したが、それでも疲労困憊に近いドイツ軍よりアメリカ軍の戦死者が多かったほどだ。いまだって兵器や戦備が貧弱で、兵隊だって規律も愛国心もない」
    「アメリカはすべて打算が中心、日本のように道義のひとかけらもない」

    このような偏狭なアメリカ観が「人気の的」になったのは、アメリカを軽蔑したいという軍人の秘かな願望に合致したからである。
  2. 陸軍も海軍もアメリカを知らなすぎた。
  3. しかし山本は国際的視野で両国の力をかなり正しく判断していた一人であるが、リメンバーパールハーバーと叫ぶアメリカの自負心の強さは山本の理解を超えるものがあった。
  4. 部下を魅了する情の人
    昭和17年12月8日開戦から一周年迎えた日の和歌

    「ひととせの かえりみすれば 亡き友の 数えがたきに なりにけるかな」

    昭和18年4月3日連合艦隊司令部のあるトラック島からラバウルに到着
    昭和18年4月18日ブーゲンビル島、ショートランド諸島の前線の視察に飛び立つ。
    暗号は解読されており米軍はP38、16機が待ち伏せしていた。ブーゲンビル島上空でブイン基地を目前にして、機上で劇的な最期をとげた。
    部下から信頼された男らしい海軍の名リーダーは、6月5日 日比谷公園で国葬が挙行され、海の勇者は消えていった。

「知将、栗林忠道」と「硫黄島」

1、硫黄島の戦略的価値
硫黄島に東京とマリアナ諸島(サイパン、テニアン)の中間点であり、マリアナ諸島にはB29の長距離爆撃機の基地があり、ここを基地として日本本土への爆撃が開始されようとしていた。このマリアナの基地から爆撃を効果的にするため硫黄島は中継基地としての戦略的価値が浮かび上がってきたのである。
実際、3月10日に東京大空襲に出撃したB29が不時着したのを皮切りに2400機2700人の搭乗員が不時着した。
2、太平洋戦争末期にアメリカ軍の損害が日本軍を上回った唯一の戦い、それが硫黄島であった。(別表)
(1)昭和20年(1945年)2月16日米軍は総攻撃開始、空爆後徹底的な艦砲射撃、2月19日上陸開始、5日間で島を平定できると見込んでいた。
栗林中将の率先垂範の指揮のもとに72,000人の米軍を相手に戦史に残る大激戦を36日間展開した。(水陸両用作戦)
(2)米海兵隊はアメリカの合理主義そのものの軍隊であり伝統を誇る奇襲部隊で固めた精鋭部隊であった。
(3)米軍が太平洋戦争における対日戦を予測した時期は大正10年頃で開戦準備を進め、開戦6年前からはカリブ海で島しょ攻撃訓練を開始していた。一方日本は対米戦闘に一枚の図面も持たず、そのため教育訓練の計画も持っておらず陸大では開戦2年経ってからやっと対ソ戦から対米戦術に変えたという。
(4)米軍はレイモンド、スプルーアンス大将を総司令官として米第五艦隊の圧倒的な物量をもって上陸した。指揮官は凶暴にほえるスミスと呼ばれたホーランド・M・スミス中将である。
包囲さる
昭和20年2月18日、私は目覚めた。穴の外に出て海上を見て驚いた。平常驚かない私であるが、この時ばかりは驚いた。海面いっぱいの敵の軍艦である。島は完全に包囲されている。恐れていたものが遂に来た。私は生まれてこれほど多い軍艦を見た事がない、聞いた事もない。大部分の艦はいかりを下ろしている。大本営発表では、米国にはもはや軍艦はない、爆弾もなくセメントの爆弾を落としていると言うが、軍艦が無いどころではない。大艦隊が目の前に居るではないか。戦艦は白い40センチ砲を6門揃えて島に向けている。大艦隊は全部砲身を島に向けている。どの艦も一発も撃たぬ。不思議である。私は全員に知らせた。
3、地下陣地の構築
(1)全長18.5Kmに及ぶ地下壕
(2)摺鉢山と元山台地を二大拠点として敵をはさみ撃ちするため地下道は有線電話でつながっている。
(3)地下陣地は爆弾なら250キロ、砲弾ならば戦艦の主砲に耐えられることを目標とした。
(4)西竹一中佐(ロサンゼルスオリンピック金メダリスト、バーロン)率いる第26戦車連隊が満州から派遣された。97式中戦車、正面装甲25ミリ、重量16トン対戦車砲口径37ミリ。(23輛96式含む)M4戦車(シャーマン戦車)重量20トン、正面装甲85ミリ(150輛)対戦車砲口径75ミリ、補充も含めて270輛撃破
4、水際防衛から後退配備へ
(1)日本軍の伝統的な「水際撃滅方式」すなわち水際に強固な防御陣地を作って上陸部隊を迎え撃つという従来の戦術ではアメリカ軍の艦砲射撃に耐えられない。
(2)水際撃滅方式に固執する張団長と参謀長を更迭、送還・・・敵を知る者と知らぬ者の認識の差。
(3)アメリカは太平洋の島伝いに(Leap frogカエル飛び作戦)で硫黄島を奪取すれば日本のあらゆる都市に空襲を行うことができる。
(4)摺鉢山で星条旗を揚げた6人の兵士のうち3人は、その後の戦闘で命を落とした・・・
(5)ピューリッツァ賞受賞、ローゼンツール氏撮影(先日死去)

日米の比較・・・日米の総合国力は1対10とも1対15とも言われている。

1、開戦時の日本の石油
(1)アメリカの対日石油禁輸は昭和16年(1941年)8月1日と言われているが6月21日から石油輸出許可制にし管理輸出が完全に実施。
(2)開戦直前の日本の石油備蓄は840万トン。年間使用量は500万トン。
日本の石油生産は50万トン『国内10万トン、満州(40万トン)での人造石油石炭液化技術が進んでいたら太平洋戦争は避けられたかも知れない』従ってスマトラ、ボルネオの蘭領インドシナの石油をあてにした面がある。無血占有したパレンバンの降下部隊は有名である。当時アメリカは最大の産油国である。
2、日本人の精神主義と主観主義
(1)生きて慮因(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず、死して罪(ざい)禍(か)の汚名を残すことなかれ
(昭和16年1月5日、東条英機陸軍大臣が全陸軍に示達した戦陣訓の中にある言葉)
日本軍は「戦陣訓」に示されたようにやむを得ず物量の不足を精神力と質で補う考え方が支配していた。・・・人命軽視(慮して辱めを受けず)
アメリカで合理主義精神そのものである日本の海軍要務令、作戦要務令に当たる

Surround Military Decition−健全なる軍事判断−

いかなる精神主義もなく、軍事判断の条件として三つの原則を考えていた。
  • 第一がスタビリティ(Stability 適合性)
  • 第2がフィージビリティ(Feasibility 実現可能性)
  • 第三がアクセプタビリティ(Acceptability 受容性)
所望結果を達成するため総体戦力の中で損失の結果を受容できるか否かの視点のみであったと言う。
(2)日本の社会では今も昔も知が力とならない文化である。満州事変以降の日本も正しくそうであった。希望的観測・・・イギリスと戦争になってもアメリカは参戦しないだろう。又陸軍軍人の多くはアメリカの国力を知っていたが国力の戦力化には時間がかかり、やがてドイツが対英戦に勝利してアメリカは戦争継続の意志を喪失する。
栗林中将は「どんな欲目にみても勝ち目は絶対にない」と述べている。
アメリカ滞在中に集めた貴重な情報は少しも活かされぬまま日本は対米英戦に突入した。
「ここに比べると大陸の戦争は演習のようなものだ」と硫黄島の栗林は妻に送っている。
支那と満州とアメリカは比較できない
山本七平も信じられない経験をしている。昭和18年夏、山本は陸軍予備仕官学校で幹部教育を受けているが、昭和18年夏「本日より教育が変わる。対米戦が主体となる」といとも簡単に述べたという。・・・ミッドウエイの敗北
(3)敵将スミスの率いるアメリカ海兵隊は必要な準備をないがしろにする事なく、全てを知り尽くす努力をした上で戦闘に備えた。スミスの言う「素早くたたき、強くたたき、どこまでもたたき続ける」アメリカ軍の「傍若無人」の迫力を硫黄島守備隊は言わば全身で受け止めていた。
敵の実力について「事実を事実」として指摘する事を「泣き言」として斥けるのが、軍民を問わぬ当時の風潮の中で地下壕で戦訓を書ながら栗林は「爆発せんがばかりの怒りを懸命に押し殺して」いたに相違ないのである。
散るぞ悲しき
栗林中将の最後の様子は諸説あってさだかでわないが、大本営に発した最後の無電文から偲んで貰いたい。(昭和20年3月21日の朝日新聞から)

国の為重きつとめを果し得で 矢弾(やたま)尽(つ)き果て散るぞ悲しき
仇討たで野辺には朽(く)ちじわれは又 七度生れて矛(ほこ)を執(と)らむぞ
醜(しょう)草(そう)の島に蔓(はびこ)るその時の 皇国の行手一途に思ふ

新聞に公表されたものでは「散るぞ口惜し」に改変されている。
電文は死んでいった、あるいはこれから死んでいこうとする守備隊兵一人一人への鎮魂歌であったのではなかろうか。
3月17日栗林中将は大本営に決別電報を発した後、最後の攻撃にあたり次の訓示を述べたという。

「いま日本は戦いに敗れたといえども日本国民は諸君の勲功をたたえ諸君の霊に対し涙して黙祷を捧げる日がいつかは来るであろう。安んじて国に殉じよう」

この事は後年の平成6年2月、初めて硫黄島の土を踏んだ天皇陛下は「精魂込み戦ひし人、末だ地下に眠りて島は悲しき」と詠ったことで日本国民に深く広く記憶されるに至った。
栗林が先に「悲しき」と詠った、多くの将兵の眠るあの硫黄島で。
硫黄島の日本軍の戦いは日本人だけが行い得た、日本人だけが耐えた戦問として戦史上に銘記されたのである。
  1. 「米海兵隊にとって、またアメリカ国民にとってイオウジマは勇気の象徴であり、感動と愛国心の衝突ゆえに興奮を呼ぶ」とアメリカ人は言う。
  2. たぐいまれな勇気を讃えるアメリカの名誉勲章は第二次大戦の4年間を通じて海兵隊に84個与えられたが、その硫黄島の戦闘で与えられたものは27個、わずか36日間の戦いであったが4年間の名誉勲章の三分の一は硫黄島の闘いであった。
  3. アメリカにとってもワシントンのアーリントン墓地の記念碑(高さは24m)には

    Among the Americans Who served IWOJIMA UNCOMMON VALOR WASACOMMON VIRTUE
    (硫黄島で戦ったアメリカ人にとって並はずれた勇気が、ごく普通の美徳であった)

    と太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将の言葉が刻まれている。
  4. 2003年5月ブッシュ大統領はイラクの戦争終結を宣言した演説の中で「イラクはノルマンデー作戦の大胆さと硫黄島での高い勇気が示された」と兵士達を讃えた。

今村均とラバウル

  1. 「我が将兵を罰せず、我を罰せよ」と今村均大将の言葉である。
  2. 自ら希望し、マネス島に移送され常に部下と同じ場に身を置き共に苦しみを受けた。
  3. 昭和29年(1954年)11月15日に世田谷の自宅に帰った。既に68歳になっており、獄中から指図して三畳一間の部屋を「謹慎の部屋」と呼び、終生独居生活をし、英霊を弔った。

講演の様子

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