平成20年8月15日
終戦特集
秋本昌治
「ヤルタ」から「ポツダム」そして終戦
本年も六十三回目の終戦記念日がやってきました。もはや戦後ではないと宣言した経済白書からも、早や五十年以上経過いたしましたが現在、日本の抱える国際関係のほとんどは第二次世界大戦の敗因に起因していると考えられます。当時の日本の指導者のおごりと農村の貧困と不況の中で合理的判断力を欠き、ロシア革命のマルクス主義の影響によるユートピア思想とファシズムのヒットラーに国民が惑わされ日本の指導層の一部にも最後まで「ソ連へ傾斜する心」があったようにみられる。
マッカーサーの日本への第一歩は厚木であった。(1945.8.30) |
日本は、一九三九年五月のノモンハン事件のトラウマとレーニンさえ嫌った独裁者ソビエト連邦のスターリンへの恐れと過信があり支那大陸では足元をすくわれ、蒋介石と毛沢東を操るスターリンの策略が日本を英米戦へと突入させた原因ではなかろうか。
国際的な政治力学と言うものは非情なものである。
満州事変以来、アジアの孤児であり続けた日本に現実的な国際感覚を持てと言うのは無理であったとしても日本政府及び軍部の無知による希望的観測は、ことごとく失敗したのである。又、国民はほとんど国際情勢に関する知識を欠いていた。
南北戦争以来のアメリカの政治的伝統である先制攻撃を期待するプラグマティズム(功利主義)の真意を読めなかった。
日独伊三国同盟、援将ルートの北部仏印進駐(一九四〇年九月二七日)南部仏印進駐(一九四一年七月二八日)は、日米の対立は決定的となり真珠湾奇襲攻撃(Treacherous attack 米では騙し討ちと呼ばれた)によって、日米は長い戦争への途を歩むことになる。
ヤルタ会議
第二次世界大戦は、イタリアの無条件降伏後、フランクリン・ルーズベルト(米)、チャーチル(英)、蒋介石(中)によるカイロ会談、ルーズベルト、チャーチル、スターリン(ソ)によるテヘラン会談を経て、一九四五年二月四日から十一日迄、旧ソ連のクリミア半島の東岸にあるヤルタでルーズベルト、チャーチル、スターリンが会談し、敗戦の濃厚なドイツの戦後処理問題を決定し公表した。そして秘かにドイツ降伏後にソ連の対日参戦を誘うヤルタ秘密協定が結ばれたのである。最大の関心事は、戦後の世界の秩序と平和問題の決定で、ソ連のポーランド、ブルガリア、ルーマニアの支配、英国のギリシャ、ユーゴへの勢力分割への世界戦略でしたが、スターリンは、ドイツの敗戦後三ヶ月以内に日本に参戦する代償として、サハリン(樺太)南部と千島諸島を領有し、ルーズベルトはこれに同意したのである。(戦争による領土の拡大を禁止するカイロ条約違反)当時のルーズベルトは、対日戦争の長期化により蜜月関係にあったスターリンによる対日第二戦線を願望していた。そしてこの案は、日米開戦前の一九四一年四月十三日、松岡洋右外相とモスクワで調印された日ソ中立条約の際、日本側からの案として中立よりも強い(日ソ不可侵条約)にしようとの提案に対しスターリンはそれなら南樺太(サハリン)と千島列島はロシアに返してもらいたいと重要な条件を持ち出したのであるが日本側は拒否し、「日ソ中立条約」にとどまったのである。
このことは、暗号解読により当時よりルーズベルトはすでに知っておりソ連の対日参戦に誘う為の代償として格好の条件として容認した。
そして、ソ連は「日ソ中立条約」を破り八月八日、日本に宣戦布告、九日に旧満州国と樺太南部の国境を越えて侵攻して領土の拡大と戦果を求めてきたのである。わが国固有の北方領土(国後(くなしり)・択捉(えとろふ)・歯舞(はぼまい)・色丹(しこたん))への侵攻はポツダム宣言を受諾した(八月十五日)後であり、ソ連の対日戦略を端的に表しております。一九五一年九月(昭和二十六年)のサンフランシスコ講和条約により日本は、千島列島、南樺太の権利、請求権を放棄しましたが、北方領土の四島(南千島列島)は含まれておりませんと、この会議で当時の吉田茂首相は日本固有の領土であることを主張いたしました。しかしソ連は調印しませんでした。
※千島列島北端の占守島(シュムシュトウ)には、激しい砲撃を交えて八月十六日にソ連軍が上陸し、その後南下し国後島、八月二十二日に択捉島、九月一日に色丹島、歯舞諸島を占領し、その後もアメリカに対してスターリンは釧路〜留萌以北の占領を繰り返し求めてさえいたのである。
ルーズベルトの死でトルーマンへ
アメリカの参戦により連合国側からあの戦争を指揮していたルーズベルトは、ヤルタ会談では病気による衰えが目立ったが、一九四五年四月十二日に死去し、副大統領のトルーマンが昇格した。突然の大統領として基本的には前大統領の政策を引き継いだが、ソ連への宥和的政策から紆余曲折はあったが、強硬路線に変更し、対日政策にも無条件降伏を求めつつ戦争終結を願う国内世論の動向に耳を傾ける必要があった。一九四五年二月に初めて米国内で大々的に捕虜虐待のニュース(バターン半島死の行進)が報道され、米国の国民感情を強く刺激したが、ドイツが降伏すると次第に早期に終結を求める論調が目立ち始めた。「無条件降伏の固執は戦争を長期化させる。連合国は日本に対する最小限度の条件を規定して、世界に公表すべきである。もし現在の政治形態の保持が日本の面目を救い、わが方の受諾を可能ならしめるなら日本にその面目を与えるべきである。」「日本の皇室はヒトラーと本質的に異なるものだから必ずしも覆す必要はない、天皇なんて赦してしまえ」等(New York Times)このような兵士の感情の高まりを軍の指導者も無視することは出来なくなった。
ポツダム会議
このような中で、一九四五年七月十七日からベルリン郊外のポツダムでトルーマン大統領、チャーチル首相(後にアトリー首相)、スターリンの三者が会談し対日戦争の終戦の降伏条件を発表した。(七月二十六日)この時、ソ連は署名せず、日本に対し八月八日宣戦布告後に署名し、ポツダム宣言時はスターリンはこの会議に参加しておりませんでした。
この会議ではスターリンは、日本から終戦についてソ連に仲介依頼があるが、日本に脈があると思わせ、戦争を長引かせ、一挙に攻撃を仕掛ければよいと考えていた。トルーマンはソ連が対日戦争を開始する前に原爆を投下することによって日本に衝撃を与え終戦を早めれば良いと考えていた。原爆は七月十六日、ニューメキシコ州のアラマゴルドで実験に成功し、十八日の朝、ステムソン陸軍長官からトルーマンに伝えられていた。この報は直ちにスターリンの知るところとなり対日参戦を急がせた。日本側はカイロ宣言のやき直しありと考え、鈴木貫太郎首相は黙殺発言(ignore or reject)として伝えられ、米に口実を与えることになった。そして八月六日広島に原爆投下、九日に長崎、そしてソ連の参戦を招いた。鈴木首相は、この点を後々に至るまで悔やんでいたと言う。八月九日には、最高戦争指導者会議、八月十一日、第一回御前会議が開催された。「国体護持」が問題となったが、八月十四日第二回御前会議で天皇の御聖断によりポツダム宣言の受諾が決まり終戦に天皇が果たした役割は決定的であった。
天皇制存続を守ったのは、ポツダム宣言では従属(subject to)にこだわりがあったが、その後は「I shall return」の名言を残してフィリピンを追われ再びレイテに上陸したあの誇り高い連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの力であった。
歴史の変化は、常に「生け贄」を必要とする。あの戦争では多くの一般市民であり、そして将兵、又一部の「極東軍事裁判」の処刑者も犠牲者ではなかったか。
今の平和は、これらの人々の悲しみの中に訪れた。哀悼と鎮魂の挽歌は、子供達に語り継がなければならない。
秋本昌治 E-mail:akimotos@mbh.nifty.com
朝日新聞(平成21年4月15日付) |
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