北方領土(クナシリ、エトロフ、歯舞、色丹)問題の原因はどこにあるかは1945年8月15日、ポツダム宣言を受諾した日本の降伏を無視して侵攻したソ連の対日侵略にあります。
国際法上から見た北方領土を考察すると
択捉島(散布山・標高1587m) |
紗那郵便局(択捉島の日本家屋) |
- 1855年(安政元年)2月7日に静岡県下田において締結された下田条約では、ロシアと日本との国境はエトロフ島(択捉島)とウルップ島の間に決められ、エトロフ、クナシリ(国後島)、色丹島、歯舞諸島は、日本の領土としウルップ島以北はロシア領として確定いたしました。樺太は日、ロ混在の地として領有を決めておりません。
- 1875年(明治8年)に樺太(サハリン)千島交換条約により千島列島をロシアから譲り受けるかわりにサハリン全島を放棄しました。この条約では、日本に譲渡される千島列島の島名を一つ一つあげており、列挙されている島にはウルップ島以北の18の島で択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の北方領土はふくまれておりません。
- 1905年(明治38年)の日露戦争の結果のポーツマス条約において、北緯50度以南の南樺太が日本の領土となりました。
- 1951年(昭和26年)の日本の敗戦により国際復帰のためのサンフランシスコ講和条約により日本は千島列島と南樺太の権利・請求権を放棄しましたが、この千島列島には、北方4島の領土は含まれておりません。この条約では、日本の放棄した地域 (カラフト・北千島)が最終的にどこに帰属するかについては何ら取り決めておりません。この会議の受諾演説をした当時の吉田首相は歯舞、色丹、クナシリ、エトロフ島は日本固有の領土であることを特に主張いたしました。しかし、ソ連はこの会議に欠席し調印せず、今でも不法に占拠されているのです。
その背景には、1945年2月戦後の世界情勢を決定すべく、ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンのヤルタ会談(ヤルタはクリミア半島のソ連領)の秘密協定にあるのです。
この会談では日本関係の密約として、スターリンはドイツの敗北後3ヶ月以内に日本に参戦する代償としてサハリン(樺太)南部と千島列島の領有を要求し、ルーズヴェルトはこれに同意したことに起因しております。(戦争による領土の領有を禁止するカイロ条約違反) 当時のルーズヴェルトは対日戦争の長期化により蜜月関係であったスターリンによる対日第2戦線を願望していたのである。
しかし、ルーズヴェルトは1945年4月に突然に亡くなり、トルーマンが副大統領から昇格しましたが、8月6日広島、8月8日には長崎に、1945年7月16日にはニューメキシコのアラモゴールドに実験成功したばかりの原爆を投下し、アメリカの力を誇示しようとしたが、ソ連は、日ソ中立条約を無視して8月8日に日本に宣戦布告、9日には満州国と樺太南部の国境を越えて侵攻して領土の拡大と戦果を求めてきたのである。
千島列島北端の占守島(シュムシュトウ)には、激しい砲撃を交えて8月16日にソ連軍が上陸しその後南下しクナシリ島、8月22日にエトロフ島、9月1日に色丹島・歯舞諸島を占領し、その後もアメリカに対してスターリンは「釧路〜留萌」以北の占領を繰り返し求めていたのであるが、これは連合軍の都合により阻止させたのです。北方領土の占有はこの時から始まっており、今も国際法的には交戦状態であり、一日も早い平和条約の成立が待たれているのです。
さいたま欅ロータリークラブ 第185回例会
平成20年4月15日
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国際法からみた北方領土 |
『旧ソ連でもいまのロシアでも、帝政ロシア時代からの領土にたいする国家方針が、そのまま受け継がれているような傾向もある。それは、ニコライ一世が「ロシアの国旗がいったん掲げられた所では、決して下ろしてはならない」と述べた言葉によっていみじくも象徴されている。一度領有した領土は、寸土といえども手放してはならない、ということなのである。』
ソ連が満州に侵攻した夏(162ページより)
半藤一利 著 文藝春秋 発行
北方四島の現状 |
埼玉新聞(2011年2月9日付) |