平成20年10月28日
硫黄島の今を訪ねて
文と写真 秋本 昌治
最近の十月二十八日「硫黄島から考える」(日本青年会議所の企画)に同行して再度、硫黄島を訪れた。
太平洋戦争末期にアメリカ軍の死傷者が日本軍を上回った唯一の戦い・・・それが硫黄島の激戦である。スプルーアンス大将を総司令官とする米第五艦隊(戦艦・空母など八00隻)の圧倒的な兵力(七万二千名)と物量をもって上陸する米海兵隊に対し硫黄島守備隊約二万名が、栗林忠道中将の指揮の下に善戦敢闘したのである。
昨春、クリント・イーストウッド監督のアメリカ側から見た「父親たちの星条旗」、日本側から見た渡辺謙主演の「硫黄島からの手紙」の映画で日本でも米国でも広く紹介され、記憶に新しいところです。
硫黄島は東京から一二五〇キロ、島の広さは南北8.3キロ、東西4.5キロ、面積は東京の品川区ほど(約22平方キロ)摺鉢山(すりばちやま)(高さ169メートル)を扇の要としたシャモジ状をしており火山島で現在でも毎年30p位隆起している。
この小さな平坦な島で巨大戦力の米軍と36日間に亘って戦い抜き、米軍に人的大損害を与えたのだった。
今は自衛隊が管理し、遺族でも自由に訪れる事の出来ないこの島に、私は平成十八年夏に訪問したこの島の土を再び踏むことが出来ました。
JALのチャーター機で会議所メンバー104名が参加し、朝六時三十分に羽田を離陸し約二時間のフライトで硫黄島に到着、空港から程近い旧厚生省の建立した日本戦没将兵慰霊碑(天山慰霊碑)で参加者の僧侶が読経する中で全員が献花し壕の中で渇きに苦しんだ将兵のために御影石の遺骨箱に水をかけ祈りを捧げました。
現在、この島には海上自衛隊約240名、航空自衛隊約110名が配属されている。
任務は航空基地施設の維持、給油、救難、航空団の移動訓練、米海軍艦載機の離発着訓練支援、共同訓練及び気象観測を行っており現在も重要な島である。戦時中の地下壕も残っており最近、熱中症で自衛官が死亡した事故もありましたが孤島の中で隊員は任務に励んでおります。
摺鉢山山頂は、米海兵隊の掲げた星条旗で有名ですが、私は持参したカセットテープで鎮魂歌、船村徹作曲の「南十字星の下に」を流し祈りました。そして夕刻六時に羽田に到着すると船村徹氏が文化功労者として受賞されることを知り感服致しました。
学徒出陣で満州の戦車部隊で見習士官であった司馬遼太郎は硫黄島に転属願いを出し「本当に硫黄島で死ぬつもりだった」と述べておりますが、当時の国民感情であったと思います。
歴史に刻まれた硫黄島の地獄の戦場を通して、将兵たちの悲しみに思いをはせ、哀悼と鎮魂の挽歌を奏でてまいりました。
摺鉢山を手前に硫黄島全景