秋本昌治編著
平成18年8月20日 関東図書(株)発行
私は昭和55年(1980年)7月上旬、旧海軍兵学校、広島県江田島を訪れる機会がありました。
江田島の魂「教育参考館」には、絵画、書簡等の中で昭和17年に江田島の海軍兵学校を卒業された方が、卒業式の日に神奈川県湘南に住むご両親宛に書かれた純粋な手紙に心うたれました。
「歳月流るること矢の如し、入校の感激に胸躍らして聖地江田島に鍛錬の生活を興して三年、今この地を去りて太平洋の怒濤に乗出さんとす。此の若輩にして此の重任、全く身の光栄、男子の本懐比するに物なし。
是に至りたるは鴻恩の然らしむるは言をま俟たず。更に海山の父母様の御恩には、唯々感謝の外にこれなく候。
二十有一年の今日迄、身も心も強く正しく養育し下されし御恩は比するものなく、何らこれに応え得ずして今日に至りし、不肖の罪、此処に深く御詫び申し上け候・・・云々」
(拙著『現代に生きる江田島』より)
当時の若い海軍士官の光景が目に浮かび、それ以来あの時代と戦争を自分なりに検証してみたいと考えるようになりました。
本の題名は出征していた父(政雄)が母(幸江)に宛てた中国(南支那)よりの手紙の文面、「遥かなる戦地にて殺風景な附近の禿山を見るにつけ何時も(故郷の山河に)夢を走らせ、大陸の一角で任務に頑張っております……何卒御安心下さい」より限りました。そして多くの戦争を知らない若い世代に説んで頂ければとサブタイトル(君にめぐりあいたい)とつけさせて頂きました。
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あとがき
「お父さんは・・・・」と私が四歳位の時、母に言うと、母は世界地図を示し遠い南方の戦地だよと「ラバウル」を示してくれました。父(政雄)はラバウルに約4年おりました。 父は無事に復員出来ましたが、そんな父も昭和55年(1980年)9月に亡くなりました。父は昭和55年5月に戦友や弟(伸夫)と共にラバウルを訪れております。今思うと復員後もっと早く訪れる機会がありながら、昔の悪夢がまた甦る思いがあったのではないかとも思いますが、訪れて4ヶ月後に亡くなりました。大正生まれの父の人生はこの時に終わったようにさえ思えます。
私は平成18年(2006年)5月に息子(高幸)と共にグアム島の戦跡を訪ねました。そしてこの島には多くの日本の若者が訪れ、ビーチはマリンスポーツのメッカとなっておりました。そしてビーチではミュージシャン浜崎あゆみのテレビロケが行われておりマリアナの海に向かって放射状にサーチライトが海を照らしておりました。しかし今は美しいこの南海の楽園も「あの戦争」では激戦地となりマリアナ沖海戦では米軍に「マリアナの七面鳥撃ち」と言われるほど多くの若い日本人パイロットの命が失われたのです。
戦争を知らない世代の人たちには南海の孤島で追いまくられ死んでいった当時の若者たちの「無念さ」の歴史の上に今日の平和が築かれ、それぞれ貴重な生を受けていることを知ってもらいたいと思います。
作曲家船村徹氏及び関係者の建立した
南太平洋戦没者慰霊碑(平成18年5月グアム島) |
旧日本軍の大砲 |
スペイン統治時代の大砲(筆者と次男高幸) |
南十字星の下で
平成3年2月南国の日差しが照りつづけるグアム島の紺碧の青い空と海を背景に陸軍士官であった兄上を南太平洋で亡くされた船村徹先生作曲の鎮魂歌「南十字星の下で」が米軍軍隊によって演奏され、日米両国の戦死者の慰霊碑「道しるべ」の除幕式が挙行されました。多くの太平洋に散華した日米の英霊に誠の心を捧げて、この歌を紹介させて頂きます。
南十字星の下で
作曲/船村 徹 作詞/木下 龍太郎
- 愛する者の 楯となり
異国の海に 散ったのか
故郷の川の この水を
手向けて祈る 花供養
眠れよ 父よ 安らかに
南十字星の 星の下
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- みじかき命 人生を
捧げて悔いは なかったか
形見に残る 青春の
余白も哀し 日記帳
眠れよ 兄よ 安らかに
南十字の 星の下
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グアム |
グアム |
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